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HISTORY OF CONFECTIONERY
菓子の歴史
菓子とは何か。
人間の歴史において菓子という概念が生まれた瞬間とはいつだっただろうか。農耕以前の時代は食を得る手段は狩猟であった。狩りの途中の休息の時間、緑色の森の中でのヒトの視界に赤い果実が飛び込んできたと想像できないだろうか? 思わずヒトはそれを手にとり口に運ぶ誘惑に絶えきれず食べたに違いない。旧約聖書アダムとイブの林檎のように。口に運ばれた果実は、その甘味においてヒトに至福の瞬間をもたらしただろう。菓子の誕生である。
日本における菓子のはじまりは「橘」とされている。新羅皇子 天日槍(あめのひぼこ)の子孫 田道間守(たじまもり)は、十一代垂仁天皇の命により不老長寿の菓子「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を探し求める旅に出る。海のむこうの理想郷とされている常世の国にわたり10年の歳月の後、葉付の枝と果実付の枝を持ち帰ったが、垂仁天皇はすでに薨去していた。その後、現在まで、田道間守は菓子の神様菓祖神となり祀られてきた。菓子が、果物であった事を裏付ける「記紀」の伝承である。また、日本では、古代、これを「非時香果」といった。芳香を放つ「くだもの」は、仙人の菓子である「仙菓」として珍重された。甘味と、今でいうところのビタミンCをたっぷりと含んだくだものは、不老不死の妙薬と考えられたのである。
「菓子」という字の、草かんむりをとると、「果子」=「くだもの」となる。現在、料理の最後にでてくるくだもののことを「水菓子」というが、食後の甘味として季節感を食卓にのせるものでもある。この水菓子のコース料理の時間列における位置は、茶事における主菓子と同じ順番に供される。つまり菓子の登場するところにくだものが位置せられている、ということである。「水菓子」という言葉は、江戸時代の中頃より江戸において使われはじめたようである。
和菓子という言葉は、明治になり外国から菓子が移入されてから、それを洋菓子に対立する概念として生まれた。日本文化は、外国文化に対して、オープンとクローズの繰り返しの歴史のなかで形成されてきた。その特徴的なモノが菓子であろう。6世紀までは、半島から儒学、道教を中心とした信仰の象徴としての菓子が形成され、新羅との戦いのあと、遣唐使により唐菓子が移入され律令国家の建設の為の儀礼などに用いられた、しかしほとんどの唐菓子は油あげの製法となるので、色彩的にはきつね色の時代といえる。平安時代後期になると日宋の交易が始まり菓子としての点心が禅宗とともにもたらされた。その代表が饅頭である。
16世紀になると、ポルトガル文化との出会いにより有平糖や金平糖の製造が始まる。この時代において、着目すべきは茶の湯の「菓子」である。茶会の料理の饗応(懐石)の流れの中で「菓子」が使われていく過程を、『天文茶会記』(松屋会記、天王寺屋会記等)などによって知る事ができる。当時の「菓子」は、焼栗、昆布、椎茸、干柿などの自然菓子が多かった。17世紀に入り、遠州、石州による武家茶道、宗和による宮廷茶の湯、千家流による町方の茶道の発展や、砂糖の生産の増大により後に京菓子と呼ばれる「菓子」をつくる上菓子屋が成立する。元禄6年(1693)に刊行された『男重宝記』には菓銘も多く登場する。同時期の茶人である遠藤元閑の『茶湯献立指南』には、「花紅葉」「若紫」「初むかし」等の文学的な菓銘が登場する。教養をもとに作り手と食べ手が古典の共通認識で遊ぶ、という世界でも唯一の視覚と聴覚を重要視した食物が誕生した。
例えば、「唐衣」という菓銘を聴覚で知覚した食べ手(客)は、その菓子の抽象的形状の内、多くの部分を占める紫色と少しの比率の黄色(現在これを、菓子屋はにおいと表現する)を視覚で感じ、『伊勢物語』における「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう」という在原業平の和歌を想起し、菓子が意図するところを和歌の五七五七七の各句の頭の音をつなぎ「かきつばた」のイメージの世界に遊ぶ。
茶会(茶事)で最も一般的な正午の茶事における菓子を考えてみよう。
茶事はおよそ四時間を要し、前半は、茶会のテーマとなる床の間の掛軸の空間で懐石を食べ、酒を飲む。その後「菓子」を食べて中立、そして改めて席入する。床の間の掛軸は花に代わり、その空間で濃茶を飲む。煙草盆を勧め、干菓子を出す。干菓子は薄茶の為の菓子であり難しい思想はいらない。二種盛りが基本で、その時の季節を表現する。
干菓子の種類は、落雁、煎餅(種物)、洲浜、生砂糖、有平糖、寒氷、押物など、その意匠は具象性のあるものが多い。これは現代の茶事の流れの中で、薄茶は茶事のラストに今の季節を優しく表現するゆるやかなエピローグの役割があるからであろう。それに比べ、濃茶のための菓子「主菓子」は、茶事の流れの中で重要なテーマ「床の間」をうける役目を担っているので、視覚と聴覚を使った作り手(亭主の代行)と食べ手(客)との共通認識による遊びをつなぐ、というコミニュケーションツールであるため、簡単に答えが出ては面白くない。ゆえに抽象表現となる。
若い頃、今日作る菓子の色合いの配合について先輩に質問するとよくおこられたものだ。「京都をとりまく山端の色の変化に応じて、昨日より今日、今日より明日へとクチナシの黄色を足す。山をよく見ろ」同じ菓子でも、私たちは朝つくるもの、夜作るもので色を替える。このような加工食品は世界にひとつである。
人間の歴史において菓子という概念が生まれた瞬間とはいつだっただろうか。農耕以前の時代は食を得る手段は狩猟であった。狩りの途中の休息の時間、緑色の森の中でのヒトの視界に赤い果実が飛び込んできたと想像できないだろうか? 思わずヒトはそれを手にとり口に運ぶ誘惑に絶えきれず食べたに違いない。旧約聖書アダムとイブの林檎のように。口に運ばれた果実は、その甘味においてヒトに至福の瞬間をもたらしただろう。菓子の誕生である。
日本における菓子のはじまりは「橘」とされている。新羅皇子 天日槍(あめのひぼこ)の子孫 田道間守(たじまもり)は、十一代垂仁天皇の命により不老長寿の菓子「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を探し求める旅に出る。海のむこうの理想郷とされている常世の国にわたり10年の歳月の後、葉付の枝と果実付の枝を持ち帰ったが、垂仁天皇はすでに薨去していた。その後、現在まで、田道間守は菓子の神様菓祖神となり祀られてきた。菓子が、果物であった事を裏付ける「記紀」の伝承である。また、日本では、古代、これを「非時香果」といった。芳香を放つ「くだもの」は、仙人の菓子である「仙菓」として珍重された。甘味と、今でいうところのビタミンCをたっぷりと含んだくだものは、不老不死の妙薬と考えられたのである。
「菓子」という字の、草かんむりをとると、「果子」=「くだもの」となる。現在、料理の最後にでてくるくだもののことを「水菓子」というが、食後の甘味として季節感を食卓にのせるものでもある。この水菓子のコース料理の時間列における位置は、茶事における主菓子と同じ順番に供される。つまり菓子の登場するところにくだものが位置せられている、ということである。「水菓子」という言葉は、江戸時代の中頃より江戸において使われはじめたようである。
和菓子という言葉は、明治になり外国から菓子が移入されてから、それを洋菓子に対立する概念として生まれた。日本文化は、外国文化に対して、オープンとクローズの繰り返しの歴史のなかで形成されてきた。その特徴的なモノが菓子であろう。6世紀までは、半島から儒学、道教を中心とした信仰の象徴としての菓子が形成され、新羅との戦いのあと、遣唐使により唐菓子が移入され律令国家の建設の為の儀礼などに用いられた、しかしほとんどの唐菓子は油あげの製法となるので、色彩的にはきつね色の時代といえる。平安時代後期になると日宋の交易が始まり菓子としての点心が禅宗とともにもたらされた。その代表が饅頭である。
16世紀になると、ポルトガル文化との出会いにより有平糖や金平糖の製造が始まる。この時代において、着目すべきは茶の湯の「菓子」である。茶会の料理の饗応(懐石)の流れの中で「菓子」が使われていく過程を、『天文茶会記』(松屋会記、天王寺屋会記等)などによって知る事ができる。当時の「菓子」は、焼栗、昆布、椎茸、干柿などの自然菓子が多かった。17世紀に入り、遠州、石州による武家茶道、宗和による宮廷茶の湯、千家流による町方の茶道の発展や、砂糖の生産の増大により後に京菓子と呼ばれる「菓子」をつくる上菓子屋が成立する。元禄6年(1693)に刊行された『男重宝記』には菓銘も多く登場する。同時期の茶人である遠藤元閑の『茶湯献立指南』には、「花紅葉」「若紫」「初むかし」等の文学的な菓銘が登場する。教養をもとに作り手と食べ手が古典の共通認識で遊ぶ、という世界でも唯一の視覚と聴覚を重要視した食物が誕生した。
例えば、「唐衣」という菓銘を聴覚で知覚した食べ手(客)は、その菓子の抽象的形状の内、多くの部分を占める紫色と少しの比率の黄色(現在これを、菓子屋はにおいと表現する)を視覚で感じ、『伊勢物語』における「からごろも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもう」という在原業平の和歌を想起し、菓子が意図するところを和歌の五七五七七の各句の頭の音をつなぎ「かきつばた」のイメージの世界に遊ぶ。
茶会(茶事)で最も一般的な正午の茶事における菓子を考えてみよう。
茶事はおよそ四時間を要し、前半は、茶会のテーマとなる床の間の掛軸の空間で懐石を食べ、酒を飲む。その後「菓子」を食べて中立、そして改めて席入する。床の間の掛軸は花に代わり、その空間で濃茶を飲む。煙草盆を勧め、干菓子を出す。干菓子は薄茶の為の菓子であり難しい思想はいらない。二種盛りが基本で、その時の季節を表現する。
干菓子の種類は、落雁、煎餅(種物)、洲浜、生砂糖、有平糖、寒氷、押物など、その意匠は具象性のあるものが多い。これは現代の茶事の流れの中で、薄茶は茶事のラストに今の季節を優しく表現するゆるやかなエピローグの役割があるからであろう。それに比べ、濃茶のための菓子「主菓子」は、茶事の流れの中で重要なテーマ「床の間」をうける役目を担っているので、視覚と聴覚を使った作り手(亭主の代行)と食べ手(客)との共通認識による遊びをつなぐ、というコミニュケーションツールであるため、簡単に答えが出ては面白くない。ゆえに抽象表現となる。
若い頃、今日作る菓子の色合いの配合について先輩に質問するとよくおこられたものだ。「京都をとりまく山端の色の変化に応じて、昨日より今日、今日より明日へとクチナシの黄色を足す。山をよく見ろ」同じ菓子でも、私たちは朝つくるもの、夜作るもので色を替える。このような加工食品は世界にひとつである。