菓子のはじまり   - 菓祖神 田道間守(たじまもり)- 3

尊氏の母が、綾部の出身地であることが、足利氏にとって、特別な場所になる。現在、京都縦貫自動車道と舞鶴自動車道が交差する地点のインターチェンジの名が、安国寺IC、この「安国寺」というのは、尊氏、直義の兄弟が、元弘の乱以降の戦没者の追悼を発願し、日の本六十六国二島すべてに、一寺一塔を建立した、臨済僧夢窓疎石の提案により、康永四年(1345)光厳上皇の院宣を仰ぎ、その後五年ほどかけて、実施された、守護国の確認、支配権の確立、旧仏教へのプロパガンダ等、政治的な重要政策なのだが、利生塔の建立という、仏舎利を二粒ずつ、全国に納める行為は、聖武天皇の国分寺と同様、あるいは、それ以上の行為となった。釈迦牟尼という、遥か彼方の時代、天竺=インドという遥か彼方の南方の地をおおくの日本人が、感じたのではないか、「三国一の花嫁」の三国は、天竺、唐土、本邦なのだが、天竺のイメージは、700年前の日本人には造りにくいであろう。釈迦牟尼の悟りをその原理とする禅は、明日の命を知らない武士階級にとって受入れやすいものであった。しかし、武士と謂えども人間という部分においては、厭離穢土、欣求浄土。念仏禅が本音なのかもしれない。そして、自然な欲望として、不老不死の神仙思想がある。渡海僧または、渡来僧が、禅とともに、浙江省から、持ち込んだ多くの思想に、大系化された道教もある。江戸時代天保年間に発刊された、『道歌心の索』これは、日本の禅宗史を代表する五十人を百人一首形式で紹介している。その第一番が、檀林皇后、橘嘉智子。「もろこしの 山のあなたに たつ雲は ここに炊く火の けむりなりけり」実は、禅の本邦への渡来は、およそ六回に渡るとされ、その第六伝が明庵栄西である。その第四伝とされるのが、橘嘉智子が、南宋杭州より招聘した義空を嵯峨檀林寺の初祖としたこととされる、そう『橘』が、重要であり、夢窓疎石の発案で、尊氏、直義が亡き後醍醐天皇の鎮魂のため(実際は、藤原氏における管公のように、後醍醐の怨霊化を恐れたのであろう)心血をそそいだ、これも実際彼ら自身が石や土をはこんだとも言われている、それほど真剣に造営した天龍寺である、大覚寺統縁の亀山殿の旧跡に建立といわれているが、実は、その地は橘嘉智子の檀林寺の旧跡である。これは、偶然ではなく、後者を意識したものであろうし、寺院名の天龍寺も、もともと、本邦三例目となる、年号を被せた
暦応資聖禅寺となるはずであったが、比叡山衆徒の圧力により、暦応をすて、撰んだ寺名は道教的な強い聖なる天に昇る龍となった。
橘は、四姓源平藤橘のひとつである。起源は県犬養宿禰三千代にある、三千代は、天武帝の命婦として文武天皇の乳母をつとめ、美努王との間に葛城王(後の橘諸兄)佐為王(後の橘佐為、藤原四兄弟と同じ天然痘で死ぬ)の子らがおり、後不比等との間に光明子(聖武夫人光明皇后)をもうける。この三千代が、天平5年(733)に、没すると、藤原氏に、服従の意を表すためなのか、すぐに橘姓の継承を申請しただちに臣籍降下した。諸兄は、不比等の子四人が天然痘で麼まかった後
政治の中心にのぼり聖武、孝謙両天皇の太政官の首班を勤めた。しかし、諸兄が死ぬとその子橘奈良麻呂は、藤原武智麻呂の子仲麻呂(後の恵美押勝)との政権争いに破れ獄死する。この後、奈良麻呂の孫橘嘉智子が登場するまで橘氏は政治の表舞台から姿を消す。橘嘉智子は、大同5年(810)一月一日に嵯峨天皇との間に正子内親王(後の淳和天皇妃)弘仁元年(810)十二月三十一日正良親王(後の仁明天皇)を生むというはなれれ業をなしとげ、橘氏の復権である。奇しくも、嵯峨天皇による、平城上皇に対するクーデター「薬子の変』の年である。村上天皇(在位946〜967)の日記『天暦御記』によると御所の紫宸殿の庭前にある、「右近の橘」の樹は、秦河勝の太秦の邸の庭樹を御所に残したとある。

写真:老松 夏柑糖(4/1〜夏蜜柑が無くなるまで[例年およそ8月中旬〜9月初め頃まで])

菓子のはじまり   - 菓祖神 田道間守(たじまもり)- 2

田道間守を祀る神社は、現在三社ある。兵庫県豊岡にある中嶋神社、佐賀県伊万里にある香橘神社(中嶋神社)、和歌山県海南の橘本神社、他に分祠されたものとして、京都府吉田神社、福岡県太宰府天満宮の境内に存在している。分祠は、大正期以後の菓子業者によるものである。このうち豊岡の中嶋神社は、田道間守の出自を伝えている。『日本書紀』『古事記』によれば新羅の皇子であり『播磨国風土記』には神として記される「天日槍命」の5世の子孫でありその渡来神(渡来人)としては、唯一「天」の字をいただいており、これは、皇祖神ようするに高天原の神々と同等の扱われ方がされているということである。もう少し、この「天日矛」「天日槍」について考えたい、
写真:夏柑じゃむ 
「昔有一人乗艇而泊干但馬國因問日 汝何國人也 對日新羅王子 名日 天日槍 則留干但馬 聚其國前津耳女 一云 前津見 一云 太耳麻扡能鳥 生 但馬諸助 是清彦之祖父也」『日本書紀ー垂仁記ー』
垂仁天皇三年春三月に七種の神宝(羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊籬)を持参したとある また『古事記』によると珠が二つ、波振比礼、波切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種とされ、これらは、兵庫県出石の出石神社に、祭神「天日槍」として祀られている。字のとうり海上の波風を修めしずめる為の呪具である、かって但馬と同じくにであった丹後国一宮元伊勢籠神社を奉ずる海人族の海の神の信仰と重複したものと考えられよう。
日本における海人族とは、古文献などには、海人、海部、白水郎などと著わせられる人々のことで、中国南部の沿海地方に源をもつ漂海民族であろうと多くの民俗学の先人達が指摘している。この地方や、ここに繋がる雲南、東南アジアが柑橘類の北半球アジア域の原産地的エリアと重なる事を確認したうえで、日本における、いくつかの海人の系譜を見てみよう。安曇(阿曇)系、「アマツミ」「海人津見」ようするにルーツは「綿津見神」であり、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギノミコトが、「日向の『橘』の小門の阿波岐原」で禊祓ったときその水の底、水中、水上(潜水、釣、網を表わしている)の住吉三神である。海人の中心ともいえる渡来系民俗で住吉大社を氏神とする住吉系漁労民も安曇の傍系部族であると考えられる。もともと中国南部から、東シナ海を北上し山東半島から遼東半島、朝鮮半島西岸沿いに南下、多島海、済州島、玄海灘に達し北九州エリア(伊万里香橘神社)から、瀬戸内海の島々と沿岸、浪速津から、紀州沿岸(海南橘本社)を南進、熊野灘から、伊勢(鳥羽社に古代よりと伝えられる橘がある)に達する。余談であるが、海のない信濃國に安曇の地名が存在し、住吉神の系譜の穂高神社、諏訪社、生島足島社などが崇敬をあつめている、これは、天津神対国津神の対立による国家建設の神話によるものであろう。もう一つの海人部族である宗像氏は、筑前宗像郡を根拠として、筑後、肥前、壱岐、対馬、豊後国東の沿岸より日本海側に進出、出雲の島根半島、但馬、丹後半島、若狭湾一帯から能登半島、越後、佐渡を経由して、羽後の男鹿半島辺りを北限として定住した。これが、最初に挙げた、但馬の田道間守の中島神社であり、丹後木津の橘神話と、橘小学校の校名の由来ともなった「天日槍」の部族であり、丹後一宮元伊勢籠神社の国宝海部家系図の同族とも考えれる。この宮のある丹後半島一円には、菓子の本願たる不老長寿の伝説が、一部現存する『丹後国風土記』にいくつか取り上げられている。
例えば「浦島太郎伝説」丹後半島には、二ヶ所の浦島神社が存在する。与謝郡伊根町本庄浜という地名であるが実は内陸山と里の境目のような場所に宇良神社は鎮座している、海とのつながりは、筒川という神域を流れる小川が日本海へ流れ込んでいる訳であるが、古代この辺りが海浜であったとなかなか想像しにくい。この伝説は、この宮の縁起は、当地筒川の領主一族である浦嶋子は、21代雄略天皇二十二年(478)美婦に誘われ常世の國に行き、その後53代淳和天皇の天長二年(825)に帰ってきた。これを聞いた天皇は、小野篁を勅使として、浦嶋子を筒川大明神として此の地に鎮座させたというストーリーである。しかし、すでに七世紀に成立していたであろう、『丹後国風土記』に興味深い記述がある。「ここに嶼子、前の日の期(ちぎり)を忘れて忽ちに玉厘を開きつ。忽ちの間に芳しき蘭のごとき体、風と雲とに率ひて蒼天に翻り飛びき。嶼子、すなわち期要にそむきて帰りても復会ひ難きことを知り頸を廻らしてたたずまひ、涙に咽びて徘徊りき。ここに涙を拭ひて歌ひしく。 常世辺に、雲立ち渡る 水の江の 浦島の子が 言持ち渡る (神女、遥かに芳音を飛ばして歌ひしく) 大和辺に 風吹き上げて 雲離れ 退き居りともよ 吾を忘らすな (嶼子 更恋望に勝へずして歌ひしく) 娘らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の浜の 波の音聞こゆ」 「芳し」という言葉がみえる。これは、水菓子の絶対条件であろう。杜の中、この杜は、海浜の近くになければならないのだが、岬な先のこんもりと円球に茂った杜を、想像していただく、海からの潮風をうける、本州沿岸のもりは、多く暖流の影響で、照葉樹でできている。椿が一般的なのであるが、常緑のなかの小さな黄色の実、橘や橙、の柑橘を見つける事がある、田道間守を祀る3神社近くの海岸がそうである。潮風に運ばれる柑橘系の香り、まさに「芳し」である。
丹波、丹後を貫通する、由良川の河口(宮津と舞鶴の境となす)は、古代より、明治の末年まで、人や物が上がり下がりする交易の港として賑わった。小倉山百人一首にも『由良の門を わたる舟人 梶をたえ 行方を知らぬ 恋の道かな』と読まれた河口の丹後由良(宮津市)は、森鴎外の『山椒太夫』のモデルになった安寿と厨子王の伝承がのこる。その河口付近、北近畿タンゴ鉄道宮津線の海中を走るとても美しい鉄道橋梁の宮津側に在る山椒太夫の屋敷跡なるものがあるが、そのあたり一帯、蜜柑畑である。冬になると結構雪の深い場所である。その場所に温州蜜柑とは、実に驚くべき事なのでは、もしかすると、蜜柑圃場栽培の北限かもしれない。ちなみに最近では、地球温暖化の影響か、「早稲種」であるが、佐渡島でも栽培されている。蜜柑は、その名称温州みかんの通り、中国浙江省の原産と考えられていたが、近年、鹿児島県長島(熊本との県境、不知火湾)が中国から移入された小みかんの変異種の原木が発見された為この辺りを原産地とする説が有力視されている。最寒月の平均気温が、最低でも5℃以上なければ生育できない蜜柑(温州みかん)が、雪のなかで育つ風景を目の当たりにすれば、此所そのものが「常世國」神仙峡であると確信する。先に述べた海人族の移動ルートからも納得できるであろう。平成21年10月24日京都府宮津市の天橋立において『丹後物狂』という能が復曲され観世宗家により演じられた。この事は、歴史的なイベントと考えられる。井阿弥の原作を世阿弥が改作完成させた天橋立を舞台にした物語である。世阿弥時代の絶対的な王権の具現者たる足利義満は、至徳3年(1386)に最初の天橋立への旅行をはたす、その後、明徳の乱で有力守護大名山名氏清を誅殺し、丹後国の守護職を一色氏に任じた後は、明徳4年(1393)5月愛妾高橋殿を伴い久世戸、矢穴、小浜という周遊コースを、また、応永2年(1395)には、同じコースを5月と9月の2回、応永12年(1405)4月、応永14年(1407)5月の合計6回の橋立ツアーが確認されている。義満にとって、子飼いの一色氏を守護にすえ、6回もこの地を訪れるということは、足利将軍=日本国王義満にとって、特別な地であろうことは、間違いのない事実であろう。人によっては、丹後橋立は、「義満の離宮」であると言いきる。この事を、不老不死の菓子の上陸点という立場から考察を加えてみたい。

菓子のはじまり   - 菓祖神 田道間守(たじまもり)- 1

 「菓子」という字の、草かんむりをとると、「果子」=「くだもの」となる。現在、料理の最後にでてくるくだもの(いちご、ぶどう、メロン、スイカ、みかんなどが多い)のことを「水菓子」というが、食後の甘味として、季節感を食卓にのせるものでもある。この水菓子のコース料理の時間列における位置は、茶事における主菓子と同じ順番に供される。つまり、茶事が基本となって料理の配列が決められたということであるが、菓子の登場するところにくだものが位置せられている、ということである。
 「水菓子」という言葉は、江戸時代の中頃より、江戸において使われはじめたようで、天保年間操業のフルーツパーラー・千疋屋の看板は、「水菓子安うり処」であった。
「くだもの」つまり、英語でいえば「フルーツ」であるが、これは、「今を楽しむ」というラテン語が語源である。
 本邦では、古代、これを「非時香果(ときじくのかくのこのみ)」といった。芳香を放つ「くだもの」は、仙人の菓子である「仙菓」として珍重された。甘味と、今でいうところのビタミンCをたっぷりと含んだくだものは、不老不死の妙薬と考えられたのである。
 十一代垂仁帝(倭の五王の一人、近鉄奈良線西大寺駅の西方、唐招提寺の隣に巨大な前方後円墳がその権力の象徴として現代に残る)の時代のことである。権力を持つと、人間はその望むところ一つであり、垂仁帝は不老不死の仙菓を求めた。配下の田道間守(たじまもり)に命じ、神仙の妙薬を求めさせたのである。田道間守は西方を訪ね、妙薬を持ち帰ったわけであるが、時すでに遅く、垂仁帝はみまかっていた。その墓前に田道間守が捧げたものが、日本原産の柑橘類の一つ、「橘」であった。本邦においては、これを、菓子のはじまりとし、田道間守を菓祖神とした。
それゆえ、「橘は菓子の長上」という。

写真:老松 夏柑糖(4/1〜夏蜜柑が無くなるまで[例年およそ8月中旬〜9月初め頃まで])
田道間守を祀る神社は、現在三社ある。兵庫県豊岡にある中嶋神社、佐賀県伊万里にある香橘神社(中嶋神社)、和歌山県海南の橘本神社、他に分祠されたものとして、京都府吉田神社、福岡県太宰府天満宮の境内に存在している。分祠は、大正期以後の菓子業者によるものである。このうち豊岡の中嶋神社は、田道間守の出自を伝えている。『日本書紀』『古事記』によれば新羅の皇子であり『播磨国風土記』には神として記される「天日槍命」の5世の子孫でありその渡来神(渡来人)としては、唯一「天」の字をいただいており、これは、皇祖神ようするに高天原の神々と同等の扱われ方がされているということである。

餅と饅頭

「菓子の中で、何が好きですか」というアンケートを実施したとき、餅系のものと、饅頭系のものが、アンケートの上位をしめる結果が出る。勿論、このアンケートは、「和菓子」の中でという注釈つきである。
「和菓子」という概念は、明治になり西洋の文物が多くこの日本に流れ込んだ時にできあがった。西洋の菓子である「洋菓子」に対する本邦の菓子という意味の言葉として、対立の概念として生まれ、始めて日本人に認識された。
島国日本は、その歴史の中で、外国から流入した、元々この国にあった「同じ物」とであった時、比較しその価値について、様々な思考を巡らせ、その境を紛らわすという行動を繰り返してきた。
実は、明治から、およそ150年あまりの間、和菓子の代表とされてきた「饅頭」に、日本人が出会ったのは、約1000前の出来事であり、そのとき「饅頭」は、れっきとした舶来品であった。
日本人の基本的な食物ともいえる「餅」にしても、はるか縄文の時代、南方からか、あるいは、中国折江省あたりからもたらされたものである。この時代まで遡ると、日本の基層的食物というべきなのかもしれない。菓子という、食品の中でも特殊ともいうべきモノをつうじて、舶来品と本邦のモノの対立と同化について考えてみたい。
まず、菓子とは、いかなるものか?
人間が、生物として、その個体を維持する為に、栄養物を摂取する行為とその摂取物、ようするに食事と食物というだけの範疇に入らない食品。甘味や、塩味などの味覚を協調し、あるいは食感など触覚に工夫し様々な匂いで嗅覚など、また色彩で視覚までをも刺激し食味感覚を増進させた嗜好品として製造された食品である。
簡単にいえば、ヒトが生きていく上でどうしても必要な食物とは言えない訳であり、現に、このような嗜好品は、「健康保持」という昨今の風潮の中でその肩身を狭めている。しかし、工業化や様々な技術の進歩において、産業としての製菓業の飛躍的な成長とその種類と製造量の増加しているのも事実である。ヒトに必要とされているのも事実である。
この矛盾の答えは、この「菓子」という文字の中にある。

上用饅頭